第52回:馴れ合いについて

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  人と付き合うとき、僕は相手に全てを投げ出してみようと思う。
それは本音でも建前でもあるけれど、どちらにしろ、手加減して出し惜しむことは許されない。「会話のキャッチボール」という言葉が大嫌いだ。馴れ合い。そういった事に興味は無いし、何も生まないものに意味はない。そう思っている。
  僕には大切な友人や師と仰ぐ人たちがいる。大切な人たちはなぜ自分にとって大切になったのか。振り返って見るとそこには、どんな形であれ本気の「殴り合い」をしてきた。今も昔も教育に欠かせないスポーツは分かり易い良い例だ。互いの主義や価値観や立場をぶつけ合い、すれすれの所に着地する。その瞬間、両者の間に生まれる絆は不思議な力を持っている気がしてならない。

  僕はこのようなことを真剣に信じてきた。今もそうだ。しかし恥ずかしながら、この考えが曲がる瞬間があるのを、近頃はただ見過ごす事ができない。KY。建前。タブー。こんな言葉が周りに充満している。これが現実だ、と人は言う。
  アメリカにいる友人たちと話していると日米の違いを知る。その中で良く気付くのが、学生と「現実」の距離だ。大学3年で就職活動をする事はそれを体現するように、日本では「現実」を見る事がより強いられている。根性論や年功序列に始まり、個体の弱さや多数派の強さが目立つ。僕自身も今年3年生になるが、こういった場に晒されることは増えていく。これまで馴れ合いや建前を嫌い、自分を出すことに重要性を置いてきた自分。それを見失う瞬間に戸惑っている。

  戸惑いは建築のことにも及ぶ。建築はいま僕の「軸」だ。振れ幅が大きくてまとまりに欠けていた僕には、建築という軸ができたお陰で基準値を決められた。物事の良し悪しを決める(選択をする)には、自分の立場を明確にしなければならないから「早稲田建築」という軸が役に立ったのだ。しかし今その軸もブレている。早稲田の思想体系や建築という専門分野に、もはやシンパシーを持てていない。暗くジメジメした、固く凝りきった、この一帯の雰囲気に耐えられない。もっと多くのポジティブな力を持ち、物事がドライブされ、人が活発なアクティビティをみせる場所に僕は行きたい。今変えなければ、この「馴れ合い」は続くだろう。

更新:2013-01-11
早稲田大学 創造理工学部建築学科 佐藤鴻