第8回:富や名声だけじゃない理由は?

 富や名声だけじゃない理由は?

 富や名声。これらを手にしている人を人はとても羨ましく思い、なかには追い続ける人もいる。一方で、「富や名声だけではない」と別の価値観を提示する人もいる。今回は、何故、富や名声だけじゃないのか?ということについて私の考えを書いていこうと思います。

 私の高校生時代は、ライブドアのホリエモンや村上ファンドの村上さんが逮捕される前の全盛期で、また、漫画「ドラゴン桜」が出版、ドラマ化されるなど東大ブームでもありました。純粋な欲求に従ってお金儲けをして、少しでも良い大学に行った方が勝ち組、そういったことが「お金や名声など汚いものだ」と偽善的に叫ぶ人よりもむしろ正義のように見えていました。

 今から考えるとやや危険な状態にも見えますが、「誰しも実力次第で上へとのし上がっていける可能性を持っている」と強くメッセージを伝えられていたのはあの頃でしかなかったことを考えると、必要な時期であったのかもしれません。

 富や名声が悪いものだ、ということは一概には言えず、お金があればあるほど、楽しいことがたくさんできますし、名声が高ければ高いほど、堂々と胸を張って歩くことができます。お金があればディズニーランドホテルにも泊まれるし、肩書きがあれば同窓会でもちやほやされる。しかしながら、富や名声だけを追い求めている人が本当に幸せなのかというとそうでもないように感じます。

 富や名声というものは、どちらも結局相対的なものです。つまり「富や名声を得る」ということは「誰かよりお金持ちになり、誰かより偉くなる」ということ。そうすると、それらをただ目指している人から離れていく人はいるものの、手を差し伸べてくれる人がいなくなる。たとえいたとしても同じように「お金儲けをしたい」「偉くなりたい」といった欲をもってる人に違いありません。先に述べたホリエモンらが逮捕された時も結局世論は味方をしませんでした。大学生の中にも自慢げに、誰それと一緒に飲み会をした、誰それとつながりがあると言う人がいますが、心からそういった人を応援したいとは思えません。

 また、富や名声というものは追いかけても追いかけても満足することがありません。ある一定の水準に達すると、それに慣れてしまう、あるいは同じような水準に達した者のみのコミュニティに属してしまうことで、その中でまた上に立とうとしてしまう。「いつか来ると思っている永遠の幸せ」をなんだか苦しみながら追い続けて終わってしまいます。何故か超有名大学の学生が、コンプレックスを抱いて自殺してしまうのも、このためでしょう。

 それでは、富や名声など一切考えず生きる方が幸せなのでしょうか?

 富や名声ではなく、何か人のために・・・といっても色々な問題がありながらも平和なこの日本の中で、わざわざ新しい活動を起こしていこうというほどのパッションもない。特に富や名声は考えないので、思い思いやりたいと考える仕事に就いてみる、特にやりたい仕事がない人はフリーターになってみる。おそらくそれでは、逆に毎日が単調でつまらなくなる、やはりどこかしら満たされない感覚でいっぱいになってしまうと思います。私は結局のところ、富や名声というものは、人間の素朴な欲求であり、一般的にはやる気がでないものに対して自分をやる気にさせるためのものではないかと考えます。

 ビジネスや政治において、「人々のため・・・」「国民のため・・・」と口に出し、成功し、人から賞賛を得ている人も、なんだかんだ始まりは、ちょっとばかり有名になりたいという動機から事を成し遂げているものです。ただ、大切なのは何かしらの事を成し遂げる過程において、自分でも錯覚するくらいに、富や名声を意識した行動はとらないこと。それは人や自分を「騙す」ということではなく、自分の中の富や名声といったものを求める欲求を、表に出さない形で、うまく力に変えていくということ。そうとらえていくことで、周りからも協力が得られ、また自分自身胸を張って毎日を過ごすことができるのではないでしょうか?

 AO入試の受験生は志望理由書に「この大学でなければ私のやりたいことができない!」と皆書くと思いますが、実際のところ、多少その大学のブランドを意識しているのではないでしょうか?例えば私の所属する慶應義塾大学SFCで言うと、当初やりたいと思っていたことができないことが分かってしまっても、ある程度やりたいことを変更してSFCを目指そうとする多いように感じます。

 実際に受験中のみならず、入学後も再三自分のテーマを変更する学生がごく一般的です。実を言うと私も実際には慶應義塾大学の「SFC」だから受けたことには違いはありません。「それでは一体AO入試とは何のためにあるのだろう?」と考えてしまうこともあり、受験の指導中にはそのことについて悩む時期もありました。ただ、やりたいことを変更してAOに臨むこと、それは単に大学のブランドを狙っている・・・のではなく、自分の中にある、ブランドを狙ってしまう欲求と、自分のやりたいことを上手くすり合わせているととらえて、積極的に受験していく姿勢をもてば問題ないのではないかと現在では考えています。

 また、話を大きくし、この記事のテーマである「新しい大学選択」で考えてみると、今の受験界では大学選択の際に、もう少し「ブランド主義」を隠すべきではないかと思います。隠すというのは先に述べたように騙すということではなく、自分の中の欲求とうまく付き合うということ。第一目的にあからさまに良い大学の合格を据えるのではなく、その先にあるビジョンを掲げるということ。AO入試の特性の一つに「不合格になっても何かしらの満足感がある」というものがあります。おそらくそれは、自分の中のブランド主義だけではない、何かしらの価値観を見つけ、合格や不合格にとらわれない人生のプランを描けたからではないでしょうか。

 富や名声の話から少しそれましたが、今回は以上です。この記事を書く前は、もっと他の違うことを書こうと思っていたのですが、書きながら、自分の本音と違うことを言っていることに気付き、色々と修正を加えながらこういったかたちになりました。