第607回:老い②
僕らが引退してしばらくしてエアコンが付いた道場は、ちゃんと冷房が効いていて実に快適な環境だった。加えて普段のウエイト+ランニングトレーニングが功を奏し、それなりに練習にはついていけるもので、なんだかんだ乱取10本くらいはこなした。
これだけまとめて柔道をすると、ボロが出てくるのはやっぱり指と全身の皮膚だ。組手争いで指は壊れ、道着との摩擦で身体中の皮膚が悲鳴を上げる。当然ながら両方の要素に属する手指の皮膚は甚大なダメージを負い、特に暴れ回る釣手=左手は小指と薬指の付け根、中指の第二関節と第一関節がズル剥けになり、血だらけだった。道着を握った状態で擦れているから当然だけど、ちょうど拳の出っ張ったところがやられていて、まるでヤンキーが殴り合いの喧嘩をした後みたいだった。
と、ここまでは練習に参加する前からおよそ想定の範囲内のダメージだったのだが、乱取10本こなして1本休んだ後にまた後輩に練習をお願いされたもんだから、少しやり過ぎだけど追い込もうかという気持ちで受けたら想定を遥かに上回る怪我をした。僕にとって軸足である右足の腿の裏が、喧嘩四つの相手の内股をなんの気なしに足を上げて受けたら逝った。その瞬間の痛みは特にないものの、ただ何かが切れたブチュという鈍い音と確かな感覚があった。「ヤバい、やらかした!」と思った。歩けなくなったら仕事への影響は必至、絶対にダメな怪我だ。座ったまま相手に礼をして、ハイハイで道場の隅に下がって、祈るような気持ちでしばし自分の右足を見守った。数分見守ったところ、まずジッとしてる分には特に痛みはない。ただ足を伸ばしきると結構痛い。ジャンルとしては、頑張って前屈する時の腿の裏の痛みに似ている。これは世に言う肉離れというものに違いない、と思った。幸いにも現役時代に僕は肉離れというものになったことがないから大して説得力はないのだけど、あの切れた音と感覚、この痛み、久しぶりにハードなスポーツで無理をしたというシチュエーション、これらが示すのはほぼほぼ間違いなく肉離れだ。