第6回:自由記述スペース
今回は、私の実際に提出した自由記述スペースに書いたものを紹介します(ただしフォーマットは変え、個人的な写真は抜いてあります)。SFCがその中のどこを買ってくれたのか(あるいはどこも買ってくれていないのか)分からないから、あまり影響されない程度に読んで下さい。
この「後期」については、二次面接の際、(無理矢理)国際問題と絡めてかなり突っ込まれました。それについてはまたいずれ書こうと思います。
オランダ・ドイツ紀行
2009年夏、東海大学の主催するオランダ・ドイツ柔道研修旅行に参加した。参加は、全国の東海大学付属校柔道大会で階級ごとに優勝、準優勝した面々14名。12日間で私が見たこと、聞いたこと、感じたことを書いてみた。
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成田から、約12時間のフライト。機上どれだけ寝ていられるかが勝負。そのために前日は成田のホテルでメンバーと夜中の3時までトランプで遊んだのだが、いざとなるとなかなか眠れない。私の巨体に飛行機のシートはあまりにも狭い。諦めて機内映画を見ることにした。たいして面白くもない日本映画を4本見終えた頃、到着を知らせるアナウンスが流れた。外を眺めた。初めて見たヨーロッパの地、アムステルダム。
飛行機から降りてひんやりとした空気を吸った。ホテルへ向かう。大きい道もある、建物もたくさんある。しかし「店」といえるようなものが全くない。要するに田舎(?)。ホテルに到着して夕食。食事は予想通り美味くない。時差もあって9時前にはみんな就寝。
x月xx日
世界選手権大会見学。ロッテルダムのアホイ体育館へ行く。200mにも及ぶ開場待ちの列を見て、ヨーロッパでの柔道人気を実感する。山下泰裕先生や、今では普通の体格になってしまった井上康生先輩に挨拶をして会場入り。会場には、応援の口笛やラッパの音が絶えず鳴り響いている。日本では考えられない。我々も口笛で対抗しようとしたが音を出せずに失敗。この日の日本人選手は福見が優勝、平岡が準優勝。日本柔道もまだまだ捨てたものじゃない。
夕食は、前日の失敗から、自由に外食をしていいということで、20ユーロづつ先生から小遣いを貰う。3年生7人で2、3キロ先の駅まであてもなく歩き、中華料理店を見つける。一人20ユーロしか持っていないという僕らに、中国人らしい店主がそれでOKと、山のように料理を出してくれた。愛しの米をたらふく食べた。
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前日に続き世界選手権見学。前の席に座っていたスペイン応援団の人たちと仲良くなった。もちろん言葉は全く分からないが、どういうわけか気持ちは通じる。前日に福見と決勝で戦ったスペイン選手が席にいて、銀メダルを触らせてもらった。外国人は人懐っこい。日本人選手は、僕らと1学年しか違わない中村美里が優勝。男子は大束先輩が1回戦負け。
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アムステルダムからハンブルクへ飛ぶ。現地在住の日本人の案内で、空港から電車で市外へ。ハンブルクでしか食べられないという、ラプスカウスなるぐちゃぐちゃした奇妙なものを食べさせられる。決して美味しくはないものの、なんとか完食。
それから町で観光&ショッピングタイム。おもに教会を見て回ったが、どれも馬鹿デカい。日本の寺が横に広くどっかり地 に座るようであるのに対して、こちらはひたすら天に向けて高く鋭く聳え立つ。
Tシャツを買った。私の着られる巨大サイズがあるのが嬉しい。夕食はやっと、ドイツといえば、のソーセージ。さすがに美味いのだが、それが主食だからやたら多い。
x月xx日
地元道場にてヨーロッパ初の練習。最初は緊張したが、正直、メンバーは強くない。疲れたら端で休む選手が多い。根性、なし。日本の練習のように 「 追い込む 」 感覚なし。また、無差別という考えがないのか、小さい選手が重量級選手と組んでくれない。後半には相手がいなくて困った。最後に練習試合があって、私は26歳の人に大外刈で一本勝ち。乱取り経験はあるが試合で初めて、対外国人戦に勝ち、自信になった。
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ハンブルクからアムステルダム経由で空路ミュンヘンへ。すぐに夕食。ハンブルクで行った店のチェーン店で、無難に美味しかった。ミュンヘンのホテルでは近くにコンビニがあって助かった。そこで買ったピザで夜はパーティー。日本にいる時より練習量がずっと少なく、これを 「 遠征 」 とよんでいいものやら。
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ミュンヘンでの初練習。地元の道場へ。ハンブルクより大きくてきれいな道場だ。そこに2003年の大阪世界選手権81kg級チャンピオン、ワーナー選手がいてビビール。しかしすぐに、彼がすでにコーチとなり練習をしないのを知って、ほっと胸をなで下ろす。
チームのレベルはハンブルクと変わらない。自分の柔道を思いっきりできて面白かった。メンバーは僕らと同じ年代を中心に、小さい子から大人まで。女子選手もいる。みんな良い人ですぐに仲良くなった。
アムステルダムでもハンブルクでもミュンヘンでも、街にもホテルにもコインランドリーがなく、柔道着を洗濯できなくて困った。日本では同じ日の午前と午後でも同じ柔道着を着ないから、一日に二度は洗濯をするのに。休憩後、汗で濡れた柔道着を、我慢してもう一度着る。仕方がないので夜、風呂に水を張って洗剤を入れて道着を手洗いした。手で絞っても水気は取れず、なかなか乾かない、洗濯機のありがたみを知る。
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一日中練習。少しだけ遠征らしくなってきた。ここでも軽量級は重量級と組んでくれないので ( そのくせ女子選手は平気で男子選手と組む )、乱取り相手がいなくて余ってしまったり、合間の休憩がやたらと多かったりで、練習はまるで楽。少しづつ太ってきているのに気付き、焦る。ドイツの女子選手は日本の選手に比べてみんな美人だ。練習が楽しくなってきた。
x月xx日
ドイツでの最後の練習。自分なりに追い込んだつもり(?)。最後の練習を終えると、ミュンヘンチームのみんなが拍手をくれた。仲良くなった人の中には泣きそうな顔の人もいて、ちょっと感動。夕食はチームの人たちが米を炊いてくれた。久しぶりの飯。ありがたく頂いた。
夜はホテルで日本とドイツ、両方のみんなでパーティー。ドイツビールをしこたま飲んだ ( ドイツでは16歳からビールOKなのだ )。翌日の12時間フライトに備えて再び、寝ない作戦。ヨーロッパ最後の夜を満喫したのだった。
x月xx日
アムステルダム経由で東京へ。帰るとなると早く帰りたいと逸る気持ち。そのせいか帰路の方が長く感じる。行きの失敗を生かした我々は、トランプなどのアイテムで何とか乗り越える。が、いざ日本に降り立ってみれば、短かった遠征。到着したのは日本時間では5日朝。成田から相模原へ向かうバスでやっと眠った。
寮に帰ってまず初めにしたことは、飯を食うこと。
後記
さて、楽しかった欧州遠征旅行。冷たい空気、フレンドリーな人々、米のない食事、聳え立つ教会、コンビニやコインランドリーのない街、心揺れる体験はたくさんあったが、やはり最後は柔道を語ろう。
海外で柔道に触れたり、日本を訪れる外国選手と練習をすると、日本柔道の精神性が見えてくる。小さい頃から教えられてきたことが何だったかに、はっと気付く瞬間がある。
例えば指導者が集合を掛けると、日本なら選手は走って集まり、立つか正座をして待機する。でも外国の選手は、胡坐をかいたり、寝転んだり、そもそも集まらなかったりする。最初はびっくりするが、しばらくすると分かってくる。目上は尊敬しなければならない、尊敬していれば礼儀正しく振舞わなければならない、礼儀正しいとは正座直立すること、といった式が彼らの中にはないのだ。そもそも目上目下という認識が異なり、正座や頭を下げる動作の意味も異なるなら、そんな式は単なるひとつの習慣、ひとつの思想に過ぎないわけだ。
また外国選手は、嫌ならやらないし、疲れたら休む、痛ければ簡単に 「 参った 」 をする。それを見ると、「 我慢 」 を美しいとする、いわば日本的 「 やせ我慢 」 を形にしたのが武道なんだと思い至る。
柔道の土台にあるものが、実はこうした単なる日本特有の習慣や感覚、思想だとしたら、目に見える競技のノウハウと、言葉にされたほんの一部のルールだけで海外に出た柔道が、日本柔道と別物になるのは当たり前。日本柔道はこの20年、その狭間で右往左往してきて、私たちはしょちゅう変わるルールにずい分振り回されたものだ。
しかし今回私は、世界選手権大会でヨーロッパでの柔道人気の高さを見た。世界選手権でも街の道場でも、多くの人たちが、柔道を大いに楽しむ姿を見た。感動的だった。私が会った柔道家や柔道ファンは、柔道を生んだ国日本から来た私たちを、敬意を持って歓迎してくれた。本当に嬉しかった。世界は柔道が日本で生まれたことを忘れていないし、日本柔道の精神をないがしろにしようとは思っていない。むしろ興味津々で知りたがっているように思う。実際、一旦は遠く離れてしまった国際柔道は、度々の改変を繰り返しながら、これまでは暗黙の了解でしかなかった一つ一つのルールを言語化し数値化して、結果的に今また、日本柔道に近づいてきている。
だから日本は諦めずに日本柔道の心を伝える努力を続けなければならない。今まで土台にしていた日本の中でだけ共通な思想を、今度は世界に共通なものに築き直さなきゃならない。それには妥協も必要。柔道はもう日本だけのものじゃないから。