第153回:体罰問題に関して、僕の思うこと

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最近、体育会系組織に属する人間をドキッとさせる言葉がニュースに乗って世間を駆けまわっている。そう、部活動における 「 体罰 」 問題だ。僕もいちおう体育会系街道のど真ん中を駆け抜けてきた者として、この問題に対する自分なりの思いを述べておこうと考えた次第である。かねてより感じていたのは、体罰ってのには、与える側と与えられる側、それぞれに二種類あるということ。

まずは与える側 … これは単純、そこに愛があるか否か、の二種類だ。

僕の愛してやまないスポーツ漫画 『 ピンポン 』 での一セリフ。
「 技術叩き込むだけがコーチングと違うぜ、小泉よ。そんなもの本開きゃ書いてある。
愛がないのなら、あの子からきっちり手を引きな 」
要するにそういうこと。

そりゃどんな指導者だって人間だから、選手が望むように動いてくれなかったり、中途半端なことをしたら、言葉の通り頭にくる。自分がプレーするんじゃないからなおさら、怒りや悔しさがあるんだと思う ( 指導者になったことないからほんとのところは分からんけどもね )。そんな時、自分のその気持ちを晴らすために選手を殴るところに、愛なんて全然ない。それはただの弱い者いじめの暴力で、今、ニュースで騒がれているのは多分こういうのだったんだろう。( だって愛から30発なんてありえない )
一方、選手がもう可愛くて可愛くて仕方なくて、何とかして強くしてやりたい、もう一つ上に行かせてやりたい、そういう思いからやむなく出てくるものがある。体育会系中に在ったことのない人には理解できないかも知れないけど、こういうことって確かにあるのだ。
いや、愛があれば殴ってもいい、と言っているんじゃない。だいいち、殴って強くなるんならみんなそうするけど、そうじゃないから。でも指導者も人間だ、ってことだ。

そして与えられる側 … これも単純、指導者の愛を感じられるか否か、の二種類。
最近の若い奴は ( 俺が言うのも何だけど )、いかんせんいわゆる根性がない。ほとんどの学生はちょっとぶっ叩かれたりガーッと強く怒られると、その意味もよく考えずにショックを受けて塞ぎ込む。本気で自分のことを思ってやってくれていても気が付かず、気が付けなければ、生徒の中では全てただの暴力となってしまう。
だから、指導者にブン殴られた時は、ショックや痛みや屈辱からちょっと引いて、ちょっと冷静になって、自分のこと、相手のことを考える。生徒の心に力があって、指導者に強い愛があれば、絶対に、分かる。
分かったからどうなの、って問われると説明が難しいんだけど、強く強く何かを目指す時、技能の向上だけではない理解とか共感とか、支えられてるって感じることとか、つまり愛って必要なんですよ。

いずれにしろさっきも書いたように、殴られて強くなるわけじゃない。なのに、柔道みたいなスポーツには根性至上論がまだまだかなり根強く残っていて、暴力が必要、と考える頭の古い暴力的な指導者も残念ながら確かにいる。愛があるからいいんだ、と愛を逆手に生徒をボコボコにする指導者だっている。
この事件を機に今一度、指導者はもちろん生徒の方も、この難しい問題を考えてみるのも良いだろうね。

PS.
体罰問題から派生して、学校の部活でのいき過ぎた勝利至上主義が問題視されている。まさに僕らの高校時代。確かに学校教育としてどうなの、って面もあったかも。でも僕らほど愛と涙と情熱に溢れた高校時代を送った人間はあんまりいないだろうとも思うのだ。

更新:2013-01-28
慶應義塾大学 総合政策学部 藤井 岳