第232回:JUDO Spirit

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僕はまだ、本当の意味で柔道の楽しさを知らないのかもしれない。遠い異国で、僕みたいなのとは全く異なる背景の中で一生懸命柔道に取り組んでいる人たちを間近で見て、少し考えることがあった。

僕がここまで15年以上も競技一筋でやってこられたのは、間違いなくある程度「勝てたから」だ。その中で人間教育的な要素ももちろん大切にはしてきたけれど、それはあくまで勝つことを目的とした厳しい鍛錬の先にあるものだと信じてきたのだ。もし仮に、誰にも勝てず、レギュラーにも入れず、投げられてばかりの日々だとしたら、僕は柔道から逃げ出していたと思う。それでも人間的に成長できるから、と大人になることは出来なかっただろう。
ところが、ここの人たちの乱取りや試合における雰囲気の中に感じるのは、必ずしも勝つことを目的に柔道と向き合ってはいない、ということだ。ヤル気がないという意味ではない。何より、日本から教えにきた「先生」と呼ばれる者に対する尊敬の態度がそれを物語っている。実力に対するものではなく、実力を超えたものへの敬意を感じるのだ。特に勝利への拘りがない分、強いから偉いとか弱いからダメといった見方が存在しないのだろう。競技の奥にある、精神の部分をただひたすら学ぼうと先生に近づき、色々なことを聞いてくるのだ。

今回の研修を通じて彼らと触れ合い、彼らの姿勢を知ったところで、おそらく僕自身は勝つこと以外に競技の目的を置き換えることなど出来ないだろう。少なくとも現役中は。

しかし、慶應AO入試の論文作成の際散々考えたように、嘉納治五郎が柔道を確立した本来の目的はまさにこの「精神」だったはずだ。
柔道が今後世界で普及するために、あるいは日本でその価値を再確認してもらうために、更に世界から日本柔道への敬意を再び得るためには、この考え方を理解していく必要があるのではないかと考えた。

更新:2014-09-05
慶應義塾大学 総合政策学部 藤井 岳