第19回:車輪の再発明
車輪の再発明
コロンブスがタマゴを割ることが革命的だったと伝えられているのはなぜだろうか?
タマゴを割れば、立てることができるということは誰もが知っていただろう。
iPhoneが登場する以前から、スマートフォンは存在したし、機能だけを見れば、
当時業界を席巻したiOSと、対抗馬であったWindows Phoneなどの機能は大差がなかったのに、
それでもiPhoneが勝ったのはなぜ?
昔からランニングや登山を愛好する人たちは一定数いたのに、
それが今日あらためてブームとなり新しい魅力が発見されているのはなぜか。
こういう疑問には、一般的な答えとして、「広告戦略」や「マーケティング」といった答えが用意されることが多いと思われる。
が、今日はマーケティングの話ではない。少し違ったアプローチ。
「車輪の再発明」という言葉がある。すなわち、
「既にあるものを、(既にあるとは知らずに)改めて作りなおしてしまう」ことだ。プログラマーの間でよく使われる言葉だ。全く別のものを発明するのではなく、同じモノを作ってしまう。
これは、ただ単に一つのことを達成しようという時には、非効率であり不勉強であるとみなされる事だ。車輪を一から作り直すくらいなら、どこかのホームセンターで買ってくれば、それでいいわけだし、実際、車輪を一から作る(工場や工業的なアプローチなしで、日曜大工的に)ことになったら、ホームセンターで買うよりも数倍、下手をすれば十倍以上のコストがかかるだろう。時間的、人的コストについては言うまでもない。
だが、この「車輪の再発明」は、デザインやクリエイティブな事業の間ではよく行われていることだ(と僕は思う)。既にある車輪・プログラム・パーツ・モジュールを洗練させ、ブラッシュアップするのではない。全く同じ物を、偶然にも作りなおしてしまうこと。
再発明すること自体に価値があるという考え方もある。消費者にとってまだ早過ぎたモノなら、「そこそこ使える」という評価を受けて歴史に埋没してしまうくらいなら、あらためて再設計する。それは価値の再評価につながるだろう。
かつてイタリアに興った芸術潮流であるルネサンスは「古典主義の再生」を意味するし、ローマの時代から時代遅れとされてきた民主主義が、今日ではこれほどまでに民衆の共通理念となっていることもまた「再発明」だろう。
同じ系統ではない発生で、進化の途中で全く同じ形質に至るというのは、つまり、時代の要請であり、環境の要請であるということだ。
もっと具体的な話をすると、プログラマーに限らず、あらゆる「修行中の身」にとっては「車輪を再発明する」ことが重要なわけだ。昔から、より遠くにボールを蹴る技術は存在するし、複雑な定理を計算するプログラムも存在するが、それを自分で考えて、自分の手足で編み出さなければ、自分の力とはならないのだ。車輪が存在するという知識はあっても、それを具象する術を持たないこともある。
だから、コロンブスは自分がタマゴを割れることを立証し、その他の人間はその価値を再確認するに至ったというわけだ。