anyとsome
私は中学校の英語の授業で、肯定文ではsome、疑問文か否定文のときはanyを使うと習った。これは便宜的な教え方で、正しいとは言い難い。anyというのは「何でも」という意味をもっていて、someというのは「いくらか」という全く違う意味をもっている。こういう意味を持つので通常anyは疑問文か否定文、someは肯定文で使われることが多いが、そうでなければいけないわけではない。たとえば
He eats any foods. (彼は何でも食べる。)
という言い方もできる。肯定文ではsome、疑問文・否定文ではanyといった便宜的な教え方は長い目で見るとかえって混乱のもとになる。someが疑問文になるとanyになる、というのは手っ取り早いが本質的な教え方ではない。それよりはsome、anyのそれぞれの意味するところを完璧でなくても教える努力をした方がいい。
some とanyの例はあくまで一例に過ぎず、他にもこういった形で、本質的ではないがとりあえずわかりやすい、ということで便宜的に教えるケースは多い。しかし、そういった表面的な教え方は考えることを停止させ、自由な発想を阻害する恐れがある。
そもそも言葉をどのように使うべきかという決まりはない。自然言語の場合、最初に文法を決めてその範囲で言語が発展したのではなく、言語がまずあって、その法則をまとめたものが文法だ。自然言語は年月を経ると自然に変わっていくもので、文法も不変ではない。誰かひとりが他の人と違った言葉の使い方をしていると「文法的に間違っている」ことになるが、皆でその言葉の使い方を踏襲すれば、それが文法になる。ルールに縛られる必要はない。一番、伝わる、と思う方法で伝えればいい。
言語を覚えるときに理想的なのは、できるだけ多くの言葉に触れて、自然に自分なりの感覚で文法を会得することだと思う。法則化、パターン化は脳が自然に行う。実際、母語はそのようにして覚えている。無理にひとつひとつ知識として覚えなくても情報をたくさん取りこめば、何かいい感じ、とか、何かしっくりこない、とか、わかるようになってくる。しかし、この感覚を身につけるためには、その言語を脳で処理する回数の絶対量を確保するか、あるいはある程度以下の年齢で習うことが必要なのではないかと思う。たとえば、英語を母語にしている人は、物を示すときにそれが1つなのか複数なのかを無意識に考えながら話すが、日本語を母語にしている人にはその感覚がない。私はそれなりの量の英語を今まで読んだり、聞いたりしているつもりだが、物を思い浮かべるときに単数と複数を自然に考える感覚は残念ながら未だにない。不定冠詞「a」と定冠詞「the」の区別も未だに無意識にはできない。
ある程度の年齢になってから学び始めた言語において、書いたり読んだりする絶対量を確保できない場合、次善の策としての文法的な学習の意義を否定するつもりはない。しかし、その場合でも、わかりやすいからといって「肯定文ではsome、疑問文か否定文のときはany」と決めつけた形で学ぶのではなく、多少、理解するのに時間がかかっても、言葉が持っている本来の意味を考えながら学ぶ方が、結局上達するための近道であると思う。
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洋々代表。日本アイ・ビー・エム株式会社にて、海外のエンジニアに対する技術支援を行う。その後、eラーニングを中心とした教材開発に、コンテンツ・システムの両面から携わる。 東京大学工学部電子情報工学科卒。ロンドンビジネススクール経営学修士(MBA)。