対等


日本で裁判員制度が導入されてから今月で15年になる。これまで12万人を超える人が裁判員や補充裁判員を務めたという。抽選で名簿に載った裁判員候補者は裁判所で行われる選任手続きを経て事件ごとにさらなる抽選で裁判員に選ばれる。辞退する人が多いなど課題はいろいろあるようだが戸倉三郎最高裁長官の「導入以来おおむね安定的かつ順調に運営されている」という見解に違和感はない。裁判員制度が成り立つのはすべての人が対等であることが前提になっている。法律の知識がないと裁判員に選ばれても物怖じしてしまいそうだが、自分なりに真剣に考えて臨めば一国民として貢献できると思う。

民主主義の根幹にはすべての人が対等である考え方がある。一人一票の選挙制度もその前提の上に成り立つ。社会で功成り名遂げた人でも18歳の高校3年生でも同じ一票だし、法や政治の深い知識がある人でもそういった方面の勉強を全くしてこなかった人でも同じ一票だ。日本が好きで日本のために何かできればといつも思っている人も、たまたま日本に生まれただけでできることなら海外に移住したいと思っている人も同じ一票。一億人の有権者がいれば本当に様々な人がいるはずで全員一様に一票ずつ与えるべき、というのは自明ではない。実際1890年に第1回衆議院議員総選挙が行われた際は25歳以上で15円以上納税した男子にしか選挙権が与えられなかった。選挙権が与えられたのは当時の人口の1%程度と言われ、ほとんどの国民は投票する権利を持たなかった。当時は義務教育の制度もできたばかりでその時点では学校に通ったことがない大人も少なくなかっただろう。そのような中で全員に選挙権を与えることに躊躇する気持ちは理解できるし、どちらかといえば大政奉還から23年で初めての国政選挙まで辿り着いたことの方に感銘を受ける。とはいえ、教育を受けて一定程度の知識がある層で議員を選ぶ、という考え方には傲慢なところがあるし、エリート主義的な危険さもある。その後時間はかかったが納税要件が撤廃され、男女平等の選挙も実現されたのはよかった。

フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」は未だ訪れていないようだが、人の上に人が立たないという民主主義が政治の最終形であることについては納得感がある。すべての人が自分には一票の価値がある、という自信と、自分が一票を超える存在ではない、という謙虚さを併せ持てるといい社会が実現できるように思う。


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