集団の一部としての個


Facebookの友達同士の「いいね」であればまだしも、たとえばYahooニュースのコメントに対し「そう思う」あるいは「そうは思わない」とクリックすることにどんな意味があるのだろう?自分一人がクリックしても全体の数字にほとんど影響はないし、仮に多少の影響があったとしても、ほとんどの記事は数日で誰にも見られなくなる。それに比べたらコメント自体を書くことはまだ自分の考えを直接的に表明できるのでまだ意味があるのかもしれない。そうは言っても、これは匿名のネット掲示板や口コミ情報サイトでも同じだが、少なくとも自分がコメントすることによる経済的メリットはないし、ほとんどのコメントはあっという間に誰にも読まれなくなる。そもそも初めから全く読まれないものも数多くあるだろう。しかし「意味」があるかどうかは本人が決めることで、経済的メリットがないのにコメントをするということは逆に本人には何らかの「意味」があるということだろう。

私は掲示板に書き込むこともないし口コミ情報サイトにも投稿しない。しかし、ネット上でおかしなことを言っている、と思うような書き込みがあるとそれを指摘したくなることがある。また、「いいな」と思った映画や本についてコメントしたくなることもある。それをしないのは自分自身の経済的合理性を気にし過ぎるからだろう。ネットでコメントすることは、個人としてはメリットがなくても、もしかしたら集団としては意味のあることなのかもしれない。選挙で自分の一票は大勢に影響がなくても、集団の一部としての行動としては意味があるように。

人には集団として機能するためにセットされた性質があるのだと思う。1人1人の人間にとっての損得勘定ではマイナスでも、つい行動したくなることがあるのは、集団の一部としての性質を持っているからだ。個人にとってメリットのない行動でも数が集まると集団としての人格をもち、何らかの意味を持つようになる。自分にメリットがなくても匿名でコメントしたりするのは、人間のそのような性質によるものだろう。失言等によるネット上の「炎上」もそこに参加する個々の人にメリットはなくても、1つの集団の意思のようなものが見える。1人1人の思うがままに勝手に言っていることが集団として見るとそこに集合体としての個性を感じる。小さい魚や小動物の群れが1匹・1頭の単体に見えるようなものだ。

自分個人にとって最も大事である「命」でさえ、人は集団のために擲つことができる。戦争で軍隊の中の一兵卒が命を落とす「意味」は集団の一部の個として考えないと見出せない。我々は通常思っている以上に個々の人間というよりも集団の一部なのかもしれない。


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